愛は恵方巻きのように
俺にとって、節分とは恵方巻きである。
恵方巻き、というものについては、ゴリ推しの文化であるだとか、小売店でのノルマや廃棄だとか、未だネガティブなイメージが纏わり付いているようにも思える。ただ、個人的には別に文化自体への嫌悪感はないし、豆を撒き散らして心の底から楽しめる様な少年のハートはとうに失ってしまった。だから、節分だ、と言われた時に、じゃあせっかくだから俺はこの赤鬼の恵方巻きを食うぜ、というような感情になる。今年も思い立ち、最寄りのコンビニに向かった。
恵方巻きはすぐに見つかったが、買わなかった。長さが圧倒的に足りないのである。しかも、明らかに切られている。やはり恵方巻きは、長いものを無言で一気に食ってこそだ、と自分の中の恵方巻き原理主義者が騒ぎ出してしまった。
なので、急遽恵方巻きの代わりになり得る食品を探すことにした。条件は2点、長いことと切られていないもの。探してみると、天下のセブンイレブンと言えども、中々見つからない。そんな中、最終的にこれを恵方巻きとすることにした。
チョコチップクリームのちぎりパンである。
「切られていないものとか言いつつ、小分けにして食べること前提の商品じゃねぇか」という声もあると思う。けど考えてみて欲しい。長さだけではなく、ちぎって食べたい、という誘惑もまた試練となるのだ。2つの試練に打ち勝ってこそ、福が来るのではないだろうか。苦労無くして利はないのだ。
早速購入して帰宅。更にオプションとして飲み物は買わなかった。漢だから。
自室にてセッティングに移る。部屋の中心に正座し、今年の恵方である南南東を向く。正面にはWi-Fiルータがあった。丁度いい。俺の願いも飛ばしてやれ。神様もタブレットの1つや2つ持ってるだろう。
無音だと些か寂しいので、BGMをかけることにした。パンにちなんで曲は五木ひろしの「契り」。
いざ実食である。五木ひろしが囁くように「あなたは誰と契りますか…」と歌い出す。それを合図にパンを頬張る。ここから完食まで、一気に行かなくてはならない。福男となる戦いの始まりだ。
しかし、この戦いの結末は呆気ないものだった。
余裕で食べれてしまうのである。本物の恵方巻きだと米の重さや密度が程良い試練となるのだが、ふわふわのパンでは役不足であった。更に、クリームのおかげであまり飲み物も欲しくならない。結果、本気で挑み過ぎた俺は五木ひろしがサビを歌い出す前に完食してしまった。
虚無感に襲われる。
福を呼ぶにはあまりにも手ごたえのない戦い。
無音の部屋。
正座してる俺。
目の前のWi-Fiルータ。
熱唱する五木ひろし。
ひろしは歌う。
愛する人よ 美しく
愛する人よ 健やかに
ひろしの声が頭を巡る。
自分に欠けていたのはこの精神なのかもしれない。
自身の幸せに固執して周りが見渡せていなかった。
そんな人間には福など来ないだろう。
まずは自分が愛を与えられるようにならなければ。
少しでも世界を愛したい。
自分の愛で誰かに福を与えられるように。
そのことを俺に教えてくれた、ひろしのように。
ありがとう、ひろし。
これからも、ひろし。
つまり、節分とは五木ひろしである。